『21世紀の貨幣論』におけるヤップ島と石貨に対して、異論の補足
しばらく前に書いた『21世紀の貨幣論』の感想記事への感想ですが、自分でも言葉足らずだったのと、あのときは主旨を掴むことに必死だったので、もう少し補足して書いておきます。
21世紀の貨幣論での抜粋された文の主旨は、マネーの本質について書かれているはずなのですが、そこへ至る道筋として、
- ヤップ島のような原始的な経済ならば物々交換で運営されるはず
- なのに貨幣が使われている
- しかもヤップ島の石貨は信用取引の帳簿と言うべきモノだ
- 物々交換は存在しなかった
- ヤップ島の人々ですらマネーの本質をわかっている
箇条書きになりますが、おそらくこのような感じだとおもいます。
フリードマンもケインズもファーネスの旅行記に触れた際に、大きな衝撃を覚えたのでしょう。
それは彼らの根本に一様に「ヤップ島のような未開の島に発達した経済観念があるわけがない」という固定観念があるからでしょう。
ヤップ島の社会は彼らが暮らす社会と比べてすべて未熟である、経済観念が発達していないはず、という考えです。
石貨は単純な決済システムではない
そしてヤップ島での、石に物語を託することに価値を見いだす、という精神性を理解できていないという面もあります。
実のところ、石貨は日常の売買に用いられるというよりは、むしろ儀礼の贈答がメインです。またよく言われるようにまったくその場から動かないというわけでもありません。日本にもいくつかの石貨が運ばれてきてるほどです。
しかし彼らは、石貨は信用取引の帳簿、つまり決済システムでありマネーであると考え、そこで思考が止まっています。
フリードマンもケインズも、そして21世紀の貨幣論の著者も、あまりに西洋的な視点でヤップ島の文化をとらえており、そのために石貨の性質が理解できていないのではないかと感じます。
自分が意識していなかった衝撃的な発見は魅力的であり、価値観を変えうるほどの破壊力があります。
高名で実績もある学者が、自らの専門外のこととなると、急に突拍子もない方向へと走り出してしまうことはめずらしくありません。
だからこそ安易な結論にたどり着かず、立ち止まってよく精査することが大切なのだろうと、そうおもうのです。