シェイブテイル日記さんの『21世紀の貨幣論』の感想を読んでの感想
シェイブテイル日記さんの「大昔、物々交換などなかった」という記事を読んだのですが、どうにも結論への到達に釈然としないものがあります。
あくまでも一章の抜粋を読んだ限りなのですが....
推薦文を寄せているジャレド・ダイアモンドの著作などは畑違いの鳥類学者であり、細部にはおかしな箇所が多いもののの、好意的に受け止められているのは、全体としては丹念に多くの事例を拾い、これでもかと丁寧に述べているところと、単なる地理的要因という結論に多くの反証を持ち出せない点にあるのではないかとおもいます。
しかし、記事での引用(の定義を超えていますが)された文章を読んでひっかかったのは、論旨の進め方があまりよくなく、なにか別々の主旨をむりやり結びつけて述べているという感じがあるのです。
個々の論旨は同意するところは少なくないのですが、それをひとつにまとめると途端におかしくなるのです。
個人的にはヤップ島の石貨を現代的な貨幣の感覚で比較するのは危険だとおもいます。
貨幣と言うよりはなにか別の概念、たとえば吟遊詩人の英雄譚や、家系図といったものに、もう少し価値を加えたものなのではないか、と。加えて誕生から現代に至る間に、意味も価値もかなり変化しているのではないでしょうか。
ですのでヤップ島の石貨を持ってマネーを論じるのは現代ならともかく、過去のマネーには無理があるのではないでしょうか。
そしてシェイブテイルさんのブックマークを読んでみると、
大昔、物々交換などなかった - シェイブテイル日記
この見方が正しいとすれば、マネーの本質については貨幣商品説は否定され、大昔から「貨幣信用説」が妥当だったことになりそうです。
2014/11/12 12:39
と書かれているのですが、信用だけの貨幣とともに、商品としての価値に信用を加えた貨幣が存在しなかったという
仮に貨幣に商品としての価値が皆無だとすると、同じ政府が発行した同等の貨幣は、その素材に限らず同じ価値を持つのではないでしょうか。
しかし同じ政府が発行した貨幣でも、金属の含有量の割合で価値が異なることはめずらしくありません。
逆に宋銭のように貨幣そのものが交易の品として扱われることもありました。
管理通貨制に代わるまでは多かれ少なかれ、商品としての側面は失われておらず、ましてや当初から信用をメインとして誕生したとは言い難いです。
そもそも貨幣の商品としての価値と信用による価値は、相反するものではないのではないでしょうか。
物々交換経済がなかったとする論拠もちょっと都合が良すぎるものでしょう。
そもそもこの件がタイトルにくるのはどうなのかと。
ヤップ島の石貨は現代におけるマネーのようだ、という結論は安易とはいえわからないでもありません。
けれどもそれをもって貨幣の歴史の常識(と、本文で書かれている論)を全否定してしまうのは無理があるようにおもいます。